深く考えないということ(オンライン授業)

10:28。今日も書いていく。

 

全国の大学は全面的にオンライン授業を展開し、課題の多さや授業の質の低下など様々な問題が上がってきている。特に新1年生は一度も、キャンパスに向かうことなく、一人も友達がいないまま孤独に自宅でパソコンの前で、大量の課題に悪戦苦闘している。

 

ツイッターで、ある方のツイートに目が止まった。その方は、新1年生で、例にもれず、友達もいなく孤独で大量の課題に悩み、とうとう自身のキャパシティーを超え鬱病と診断されたそうだ。なぜ鬱病になってしまったのか。

 

私の親戚にも鬱病にくるしむ人がいて、それほど鬱病が苦しく先の見えない病気かということを十分すぎるほど体感してきている。周りの家族の大変さも並大抵のものではない。

 

この方が鬱病になった理由の一つに、目の前のことを深く考え込み、先の見えなさに参ってしまったことだと考える。確かに1年生となると、大学の授業がどのようなもので、課題の要領や、単位取得に関して何も知識がないのは当たり前である。さらに、猛勉強の末に、夢にまでみた大学生活とのギャップは大きい。

大学の先輩として、言えることは、大学の授業は自身の知的好奇心を超えることはないということだ。教授は自分の好きなことをつらつらと述べるだけで、生徒の大半は楽に単位が取れる授業を取る。このような授業を深く考える必要はないということ。課題は、ある程度調べてそれを文字数条件いっぱいに膨らませれば単位は取れる。自身の学問を追求するのは院に行ってからだと感じる。私のモットーは、「明日の自分に楽をさせる」だ。昨日の自分にいつも感謝している。明日の自分を信用しない。そうすると朝起きた時の心の余裕感が段違いだ。おかげで、世間の大学生は今鬼のような課題に頭を抱えているが、私はほとんど課題のめどは立っており、教授に早く課題を出せと言っているくらいだ。

 

オンライン授業に限らず、深く考え過ぎないということ。予想した80%は起きないという説もある。起きもしないことにいちいち悩まされては、心もすり減ってしまう。置かれた場所で最大限やること。運命なのだからしょうがない。明日の自分に楽をさせる意気込みで、気を張らずやればいいのだ。

 

人生何度か自分で選択をしなくてはならない時がある。ターニングポイントだ。そこでやればいいのだ。ここぞの嗅覚はセンスによるところも大きいが、人生の先輩の傾向からだいたい予想はつく。そこを対策すれば、good!ボディービルダーのトムプラッツの名言「ジムについたとき、スクワットはすでに終わっている」と同じ。一週間前から、その日のスクワットは、どのくらいしゃがんで、何キロで、何セットでやるかをイメージして、固め、ジムでは体現するだけ。

 

あと、人と比べないこと。自分の尺度と人の尺度は異なるし、負い目を感じる必要はない。

 

全国の大学生のみんな。一緒に頑張ろうな。